自分(自己)は誰のものであるか。もちろん自分(自己)は自分のものである。

ジョン・ロックは、『統治論』で、自分自身の身体と労働と(誰かの財産になる前に)自分が労働を混ぜたものとは自分のものになると主張した。

われわれは自分の身体を好きなように使ってよいし、その結果手にするであろう果実(典型的には所得)を自身のものとしてよい。そのさい、他の人々や社会といった「自分以外」のなにものかに負うところはないし、それゆえ干渉される筋合いもない。このような直観は、素朴ではあれあるいはそれだけ一層、根強いように思われる。かかる直観を「自己所有権」としてまとめあげ、解明に乗り出したのがG・A・コーエンである。

コーエンによれば「自己所有権テーゼ」とは以下のようなものである。
「各人は自分自身の身体とその諸力を道徳的に正当な仕方で所有する主体であり、したがって(consequently)、彼らが自分の力を他者に対する攻撃に向けないかぎり、各人は望むとおりにその諸力を行使する(道徳的にいって)自由をもつ、というのものである。……、自己所有権テーゼによれば、各人は、奴隷所有者が法的権利として彼の奴隷に対してもつあらゆる権利を、自分自身に対する道徳的権利としてもつ。そして各人は、奴隷所有者が、法的にいえば彼の奴隷を自由に処分する正当な権原をもつ(entitled)のと同様に、道徳的にいって自分自身を自由に処分する正当な権原をもつのである」(Cohen 1995: 67-8)(1)

つまりは自分(自己)を彼の奴隷を自由に処分する事が出来るように、自分(自己)を自由に処分することが出来ると言うことである。
ただしそれは、「他人の自由を制約しない」限りにおいてである。従って強制的に無理矢理に他人を奴隷化し、処分することはもちろん認められていない。

では、「自己奴隷化」はどうであろうか。
自分で自発的に誰かの奴隷になる自由は当然認められるべきである。

学説的にはいくつかの見方が存在する。
1つは、奴隷であること(強制的奴隷)を回避するためには、 自己所有権 を言う必要があるが、その一方で、 自己所有権を言うことは、奴隷となる道( 自己奴隷化 契約)を開くことになるジレンマがある。しかしそれは見せかけのジレンマであって、ジレンマではない。自己所有者として、自由意思でもって自ら奴隷になるのならばそれは一向に構わない。   
あるいは、 自己所有権 を支持しながら、別の論拠で 自己奴隷化 を否定する考え方もありえるという見方。 
あるいは、 自己所有権 という概念自体が 自己奴隷化 を容認し得ないという見方(これは無理があると思うが)。

このような自己所有権を積極的に認めることにより、私は、自己奴隷化を禁止してはならないと考える。
たしかに禁止できる場合もあるが、それは「契約時の当事者と、将来の当事者」とが「重要な意味において別人と言える」ときである。
「その将来の人物は、例えば、奴隷契約を結んでしまったことを後悔した場合、重大な点で価値観が変わってしまっている可能性が強いから、その結果として「奴隷契約は、現在の契約者とは別人になってしまった将来の当人の基本的な自由を侵害する事は出来ないので」禁止することが出来るという考え方であるが、私は禁止ではなく、重大な点で価値観が変わった時点で、契約を無効と出来ると解するべきであろうと思う。何故なら契約時点では、将来価値観が変わるとは約束されていないからである。

ある人物を「自己奴隷化」により奴隷に出来るが、それは身分ではなく、あくまで契約なので付帯条件等を付けることが可能であるし、前述の様に契約を無効化できるので、その可能性を否定する契約はしてはならない。

ある人物を「自己奴隷化」により奴隷にした場合には、契約を無効にするまでは、奴隷の身体とその諸力を道徳的に正当な仕方で所有する主体となるので、他者に対する攻撃に向けないかぎり、各人は望むとおりにその奴隷の諸力を奴隷に変わって行使する事が出来る。
その方法は契約により、譲渡、売買、委任、貸借等によって行われる。

以上が、私が考える奴隷化する事が出来る理屈である。

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