陵辱と屈辱。責めの妄想。囚われ妄想。を標榜しているSMは何故か少ない。 ネットでの主流は「愛と信頼」の立派なご主人様と従順な奴隷のSMだ。SMと いえば主従しかないと思う人が多いのです。 だからSMを彷徨う人たちは主従のSMに行こうとするのです。

しかし妄想タイプのSM嗜好のほうが本来は多いはずなのです。でも「愛と信頼」を謳ったほうが綺麗 だから、欲望丸出しのワルモノ妄想タイプのSは敬遠される傾向にある。事実、 主従タイプのSのHPではこの妄想タイプのSMを「小説派」と か「レディコミ派」などと称して真のSMではないなどと公言しているところが あるぐらいだ。(苦笑)

しかしその主従のSMを経験してみて何かしっくりこないM女さんが多いことも事実なの だ。いわゆるミスマッチ。 私のSMは妄想から始まる。その結果二人の間に何が生まれるかはやってみない とわからない。 最初から主従契約を結ぶ立派なSMとは違うのです。私は理不尽に女を責める酷い男なのだよ。 ふふふ。。。。

私はSMは頭(精神)のものだと思っている。 特に私のような妄想SMはそれが顕著だと思う。 例えば縛られる行為。なんで縛られなければならないのか。それには状況的理由 があるはずである。私の場合、それは女を捕え、責める為である。決して立派な Mにする為に調教するわけではない。 しかし現実にはこれを同意の元に行う。女はある意味希望して私に縛られる。捕 える必要はない。矛盾と言えば矛盾であるがこれが妄想というものである。

その点主従のSMのほうが一見矛盾がなく分かりやすいところがある。同意して 希望という面では奴隷となるのだから矛盾しない。しかし現実に主従を維持して いくことは難しい。主従にこだわればこだわるほど現実との矛盾が露呈してくる。 結局主従と言えども妄想なのである。

彼らはこれに気が付かない。主従の関係を構築したと錯覚してしまうのである。 私が言いたいのはこのSM的妄想と二人の関係を混同してはならないということ である。

妄想を具現する為に主従関係でなければならないということはない。例えば夫婦 関係や恋人関係でもよいのである。妄想は不変であるが、この関係は変化する。 恋人関係が夫婦関係に変わることは良くあることである。

主従と言うものを関係論で捉えているの か、妄想で捉えているのかが分かっていないところがある。理解していないから 行き詰まり、悩み、そして崩壊する。 関係論で捉える場合は、妄想でなく現実なのである。関係は変化するものである。最初に決めるものではない。逢う前から決めるから おかしくなるのである。

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